粛軍演説 の検索結果:
…件後、衆院で行った「粛軍演説」では軍部に綱紀粛正を求めると同時に、議会を軽視し、政治への介入を強める軍部を批判しました。 しかし、軍部の暴走を政治が止めることはできず、翌1937年には日中戦争が始まります。 斎藤は日中の開戦から2年半後の1940(昭和15)年、再び国会の演壇に立ちます。「反軍演説」と呼ばれる演説です。 (本社が発行する東京新聞の前身の一つ、 国民新聞の紙面(1940年2月3日))「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰…
…政治関与を批判する「粛軍演説」を行い、その後、警察や軍部の監視を受けていた。一方で国民の人気は高く、中国との戦争が長引く中で斎藤の国会演説にはいつも注目が集まっていた。 1937年7月には盧溝橋事件が起き、日本と中国との軍事衝突が拡大していく。当時、「支那事変」と呼ばれた日中戦争に対して、国会では政府への追及が続いた。 そして、1940年2月2日。斎藤は衆院本会議場に登壇。米内光政首相(当時)らに対して「支那事変処理を中心とした質問」を始めた。冒頭は「支那事変はどうなるのか、…
…入を厳しく批判する「粛軍演説」を行っていた。再び「反軍」姿勢を鮮明にしたことに軍部は強く反発。それを受け、衆院は1940年3月に斎藤を除名し、議長の小山松寿(しょうじゅ)は職権で演説のうち約1万字を会議録から削除した。一連の対応は、議会制民主主義と政党政治が実効性を失っている状況を象徴している。 演説から85年たったが、会議録には「本題」に入る前の一部が残るだけで、国会が整備している「帝国議会会議録検索システム」でも削除された部分は読むことができない。元に戻すかどうかは衆院議…